公衆ベンジョ

TEXT by 初代atmos店長 今井タカシ

そしてレコードデビューが決まってからの話をしようと思う。
実は、このデビューが決まったタイミングまで、GAS BOYSのDJは地元のスケーター先輩の関野ちゃんだった。DJネームはDJ ROBOT KZK。当時、表参道沿いにあったSTORMYで働いていて、地元柏に最先端の東京の風を届けてくれていた。関野ちゃんが作成したMIXテープを擦り切れるまで聴いていた。その時、教えてもらったアーティストがERIC B & RAKIMやWILD BUNCH、NENEH CHERRYら。クラブサウンドの洗礼を受けた自分たちは、更にヒップホップにのめり込んでいくようになる。

そして、遊びの延長で活動しだしたGAS BOYSだったが、前回も書いたようにDJアンダーグラウンドNO.1コンテストのオーディションがきっかけで、楽曲制作をにわかに開始し、デモテープを作り始めた。 右も左も分からない状態でのレコーディングは、関野ちゃんが持っていたカセットテープを使った4トラックのMTRで、初めてオーバーダビングなるものを体験した。今じゃ、デジタルになって当たり前の事柄が、当時は貴重なアナログでのレコーディングで、一発勝負感が強くて、それなりの覚悟と緊張感があって楽しかったな。自分たちの原体験はまだまだアナログな時代だった。ビートのループなんかも、関野ちゃんがターンテーブルでレコード2枚使いで、シコシコアナログでループさせたものを録音してたりしてたな。なんか牧歌的でいい時代だったな、なんて懐かしく思う。

そんな関野ちゃんと、DJアンダーグラウンドNO.1コンテストに出場するのだが、出演前から関野ちゃんの様子が変だった。極度の緊張症で、リハーサル時には、緊張のあまり手が震え過ぎて、ターンテーブルにうまく針を落とせない。出番前は芝浦インクの駐車場の自分の車の中に引きこもり、出番直前まで出てこない。大丈夫かな、と危惧していたが、やっぱり本番でも、絶妙なタイミングで音出しができない。曲作りのセンスはあったと思うが、とにかく舞台に弱いタイプ。
そんなだから、レコードデビューが決まったタイミングに関野ちゃんは「ヤバい、無理無理」と言い残して、脱退してしまった。

こんな状況下、上杉くんが、通いだした大学にヤバいやつがいたと。なんでもそいつは大学の新入生歓迎なんちゃらで、新入生がわちゃわちゃしてる中、でかいラジカセを爆音で鳴らし、そのでかいラジカセに片足を乗せてガンつけてくると。格好もゴールドチェーンを首からぶら下げて、いかにもな感じの見たからにヤバそうな奴。そいつが、どうやらDJができるらしいとのこと。ちょうど、関野ちゃんが脱退したタイミングだった事もあり、そいつをDJとして加入させてみようか、という話になった。関野ちゃんと違って、身体は大柄で、態度もデカく、ヤンキーノリで目付きは悪いが、ちょっとしゃべってみたら案外いい奴だった。

そいつこそDJバリK〜ん。
今もヒップホップ評論家的な立ち位置で活躍してるDJ YANATAKEの実の兄貴。当時、バリK〜んの実家に集ってレコーディングのプリプロなんかやってた時、高校生だったYANATAKEが、よく部屋を覗き込んできて、兄貴のバリK〜んに締められてな。見に来るんじゃねーよ、とか言われながら。
そう言えば、上杉くんの弟も、その後、スケーボーキングのMCとしてデビューするのだから、音楽と兄弟の繋がりに、面白い縁を感じたりする。
ちょっと、話が逸れてしまったので、戻すことにしよう。
そんなこんなでバリK〜んがGAS BOYSのDJとして参加することが決まった。

須永辰緒さん(DJ DOC HOLIDAY)率いるRHYTHMでのデビュー目前、初のアルバム「キョーレツ オゲレツ レッツゲットイル」制作中の事。
このアルバムは、プロデューサーに辰緒さん、ミックスは宮崎さん(DUB MASTER X)、プログラミングにアパッチ田中さんとパブさん(DJ PMX)という強力な布陣でレコーディングしたのであった。

ちょっとここら辺の記憶が曖昧で、話が前後してるかも知れないが、曲中にギターのフレーズを入れたいね、って話になって、ギター弾けるやつがメンバーに欲しいって、話してたら、当時確か、エジソン系列のレコードレーベルを主宰していた福田さん(RHYTHMは最初、このレーベルからスタートしたと記憶してるが、、、)から、若い衆でギター弾けるやつがいるから紹介するよ、との事で、自分たちの前に現れたのがギター男こと小池ゆうぞう。
ギター男の命名は辰緒さん。
風采が上がらない地味なやつが来たな、なんて思っていた。
なんか自分を隠してる感じが、まどろっこしくて、なんとも垢抜けない感じ。
でもギターを弾かせるとピカイチな才能を発揮する。

こいつは只者では無いな、と感じるものがあり、その変態性を大いに発揮できるよう、ステージに立つ時は全裸で立つように命じられる。
それをすんなり受け入れる奴も奴だが、それを命じる自分たちも自分たちで、今だったらコンプラ違反てか、公然わいせつ罪で完全アウトだよな。
ギターで大事なところは隠しながら、プレイするギタースタイルは瞬く間にプチブレイクを巻き起こし、そのスタイルが定番化していく。
スキンヘッドで全裸なギタリスト。カッコ良すぎる!
しかもデビュー当初は、アンプにギターを接続していないエアギターでステージに立っていて、当時そのステージを見ていた人たちから、ギターを弾けない人だと本気で信じられていた。

初めての本格的なレコーディングも無事終了し、メンバーも固まり、いよいよデビューと相成った。
デビューアルバムのCDは、辰緒さんの口利きによって、ライナーノーツには藤原ヒロシさんに寄稿していただき、スケシンさんに中ジャケのイラストを描いてもらい、ロゴデザインをKCDにしてもらうという、今考えると大変豪華な仕様だったな。
本当にこんな贅沢なデビューを用意してくれた辰緒さんには、今でも本当に感謝している。何も知らないズブな素人な自分たちを、一端の業界人に仕立ててもらえた。
全てはここから始まったのだ。
全ては辰緒さんのお膳立てから始まったのだ。
いくら感謝してもしきれない。

レコードジャケットのロケ地は開業前の新宿の都庁前。
そしてここまでの話が1991年。
この後に、GASBOYSの代表曲となる「公衆ベンジョ」が1992年1月に発売されるのだが、なんだか話が長くなってきたので、今回はここまで。
ヒップホップとロック、パンク、ハードコアとの融合、公衆ベンジョとCOCOBATなどを書き綴ろうかと。。。
次回もお楽しみに。

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