
TECTECK SPIRIT?!!
TEXT by Q Sekimmura (Q’s Desigh Studio / TOKYOHEMPCONNECTION*THC)
1976年。雑誌POPEYEが創刊した頃。吉祥寺の駅ビルに”TECTECK”(テクテック)という日本初のSNEAKER SHOPがOPENした。それまでは、下駄屋か靴屋か運動靴屋という名称で靴は売られていた。自分は6歳。東京八王子で生まれた頃である。


この頃の日本は、IVY FASHIONが流行り。アメリカの大学生のファッションスタイルが日本中を席巻していた。足元はNIKEのCORTEZやadidasのSL-72、76辺りのNYLONのSNEAKERが発売された時代。運動靴からSNEAKERと呼び名も変わった。そんな日本で先駆者なお店で働きたく、履歴書を出すが断られる。18歳。

しかし、想いは通じる。約2ヶ月後、TECTECKからバイトしてくれないか?と連絡をもらった。嬉しさは最高潮に達し、直ぐに仕事を始めることができた。それまで70年代後期から80年代初期のDEADSTOCKのSNEAKERしか興味のない若者が、老舗のSNEAKER屋で働き始めた。現行物のSNEAKERには、ほぼほぼ興味がなく。毎日西ドイツ製かフランス製のadidasを履き。米国製か日本製のNIKEを履き。MADE IN USAという言葉の呪文にかかっていた自分はLEVI’Sを履き、カラフルなSNEAKERに魅せられ。髪を伸ばしてアメリカ人、気取りであった。

このお店に勤めて。毎日、古いSNEAKERを履いて働いた。70年代のSNEAKERを履いて店に立っていると。常連さんに、当時のSNEAKERの話も聞けたし、何より得意げに接客できた。成人前の自分は相当、粋がってたのを鮮明に覚えている。まだ、世の中には”VINTAGE SNEAKER”という言葉もない頃である。同世代の誰よりも、そしてその時代を生きていた先輩達よりも良いSNEAKERを持っていた。
天邪鬼な性格の自分は、この頃から”自分らしく履く”をポリシーに様々なSNEAKERを履いていく事になる。その意識を明確にしていたのは、多い時で年に5回行っていたアメリカである。アメリカのカルチャーに憧れを持っていた自分は、様々な都市に出向き。メジャーな大学を回ったり、LIVEをみたり、スポーツ観戦をしたり、個人経営のスポーツ店を巡りDEADSTOCKのSNEAKERを探したりしてアメリカ人の生活スタイルを勉強してました。
で。渡米の回数を重ねると、70年代のコスプレをしている自分が少しづつ恥ずかしい気持ちも芽生えてきます。そうしているうちにTECTECKの店長石崎氏から”そんな古い靴ばっかり履いていると足が痛くなるぞ!現行のSNEAKER履いてみな?”と軽くお叱りを受け。少しづつ現行品に興味を抱くようになった。石崎店長は、口数は多い人ではないが。SNEAKERの知識とセンスは抜群で。お店には、アパレル業界の様々な人達やメディア関係の人達から信頼を集める様な人でした。

老舗のTECTECKでは。日本製のNIKEなどを作っていた日本ゴムからWAFFLE TRAINERやCORTEZのアウトソールがあり、ソールの貼り替えや修理などもやっていた。その業務をやれるのも石崎店長のもう一つの顔でもある。現行のCORTEZにWAFFLE SOLEを取り付けたり、NIKEのSWOOSHを日暮里の生地屋街で素材や色を見つけカットし。カスタムメイクなども行っていました。自分からするとSUPER HEROの様な人で一緒に仕事が出来る事が何より楽しい事でした。
TECTECKでは接客の中で、いくつかのルールがあった。足の合わないお客様にはSNEAKERを売ってはいけない。必ずシューレースを通し、両足履かせる事。シューレースは必ずオーバーラップで通し。店出しのSNEAKERのサイズはUS9。レジのお札は必ず揃える。どんなSNEAKERにも名刺サイズのPOPを描いて説明文をつけるなど。今思えば、現在にも通ずる自分のSNEAKERに対するポリシーが確立されたのは間違いない。
今のSNEAKERは買った時からシューレースが通してあるので。靴屋の店員さんはシューレースなんて通さないだろうし。言われたサイズを売るのが当たり前だと思うので転売ヤー天国だろうなぁ。
TECTECKではお客様が神様ではなかった。自分達の店に合わないお客様には売らない時もあった。今ならネットで叩かれる事間違い無しのスタイルでした。でも、売る側も本気で接客していたし。知識も揃えていたし。商品もこだわりを持って仕入れをしていた。世界のSNEAKER事情を勉強し、並行輸入で仕入れたり。様々なスポーツを楽しむ人達のために、スポーツ新聞を毎日読み、知識を深める事をし。今の自分があるのは、老舗TECTECKに勤めた事に意味があったと思う。
10年勤め、石崎店長と共に数々のSNEAKERの別注や企画を手掛け。接客や他店とは違うコダワリを持てた事。それが、TECTECK SPIRIT🧡💚良い店でした!ここのSTAFFだった事は誇りに想います。

最近は、またお店に立ちたいと思う!お客様との交流は一番刺激的だし、楽しい。
たまに、街の様々なSNEAKER屋さんに行くが。接客される事がない。とても寂しい。
今回は自分のSNEAKERキャリアの始まりの話を少々。次回は日本初の別注の話やACGの話、SNEAKER雑誌のコラムなどの90年代の話をさせてもらいたいと思います。
text by Motomichi “Q” Sekimura (Q’s Design Studio / TOKYOHEMPCONNECTION*THC)