
AIR MAX 96 Ⅱ (97SS) 本当にあったちょっとディープな裏話
TEXT by Koji UEDA(Alternate Sneakers)
AIR MAX 96 II(97SS←まだ言うか!w)が去る4月8日に発売されたわけですが…SNKRSとatmosのみでのリリースということで高い競争率になるかな?という思いもありましたが…蓋を開けてみると店頭販売に関しては決して競争率は高くなかった様です。
ですが、開店前に並んだ人数も少なければ各店の入荷数も極めて少なく、入店順3番目でも希望サイズ買えなかったという店舗もありました。

今回はオリジナルが発売された1997年のことを少し振り返ってみようと思います。
1997年初頭はMicrosoftのOSが3.1からWindows95がメインとなりインターネットが一般に普及し始めた時期でもありました。
その頃には既にNIKE SPACEとNiker’s Parkというスニーカー情報サイトと独自のセンスでスニーカーをセレクトして紹介するLOVE SNEAKERSという個人サイトが存在していましたが、大方の人の情報源はファッション誌と最寄りのスニーカーショップだけというのが実情でした。
そんな情報不足の時代です。ファッション誌を傍に毎日の様に足繁くスニーカーショップ周りをし、数ヶ月、半年と時間と労力を費やした後に運が良ければその中の1店舗と懇意となり、事前に予約を受け付けてもらえたり使用済みのカタログをもらえたりする…ユーザーとショップの距離感がとても近い時代です。足で情報を稼ぐという表現がよく使われますが、正にそれを体現しなければならなかった時代です。じっとしていては何も欲しいものが手に入らない。自分で動いて地道な努力の末に手に入るからこその喜びや楽しさもあったわけです。全く同じというわけではありませんが、今も抽選に並んでよい番号を引いて欲しいものが買えた時の喜びってありますよね。

さぁ、ここからが今回の本題です(笑)。
実はAIR MAX 96 II(97SS)のオリジナル発売当時を知るスニーカーファンの間で少々認識のずれがあります。
ある人はファーストカラーは完売して買えなかった。
またある人は並行店で定価以上で買った。
また別の人はホームセンター等で1万円前後の価格になって余っていたと…。
これ、どれも本当のことなんです。
1997年はスニーカーブームが落ち着き始めていたとはいえ、雑誌で紹介される様な人気シリーズは、うかうかしていると買えない状況が少なからす続いており、その後に訪れるスニーカー冬の時代と呼ばれる事態には未だ至っていませんでした。
AIR MAX 96 II(97SS)のファーストカラーも予約で入荷分全て即完売となったところもあれば、1店舗で500足を仕入れて数日をかけて売り切ったところもある一方、同じ正規アカウントでもなかなか完売にならなかったショップもあったのは事実です。
ですが、あの頃のAIR MAXシリーズはフューチャーオーダー可能なインラインモデルだったので、今回の復刻とは比較にならない流通量で、化け物の様なAIR MAX 95ほどではありませんでしたが、ナイキジャパンから出荷された正規品はそれなりのセールスを記録したのは間違いありません。

では何故、1万円前後の価格で売られていたところがあったのか?ということになるわけですが…24年経った今だから話せる?本当にあったちょっとディープな裏話をしたいと思います。
当時はナイキジャパン経由の正規ルート以外の並行品が今とは比べものにならないほど日本に入って来ていました。
それまでのスニーカーブームの勢いに乗って並行卸売業者(A社、K社、R社、S社 etc.)がフューチャーオーダー制を取り入れ、キャンセル不可のデポジットで小売店(正規アカウントのないところだけではなく当時は並行品も扱う正規アカウント店もたくさんありました)に発注させていたそうです。29,800円前後で販売されていたのはこれにあたります。
また、発売から暫くして…海外ではそれほど売れず現地の問屋からクローズアウト価格で出された商品を日本の並行卸売業者が買い取り、多くの在庫が日本に入って来ました。

並行で仕入れをしていた卸売業者は例えば今月100足、来月100足、再来月100足という様に小売店からオーダーを取り、3分の1ほどの前金を入れさせてキャンセル不可にし、次月に店在庫が残っていたとしても出荷を止めることなく残金回収を行なっていました。
小売店は小売店でスニーカーブームがまだ続くと思って過剰にフューチャーオーダーしてしまい、売れ残った在庫を翌月の入荷分が来る前に仕入れ値以下で処分して現金化するという悪循環に陥るところが続出。
更に卸業者もスニーカー人気急落で余剰に輸入した商品の行き先がなくなり、大手ディスカウントショップ等に全取りで損しない原価に少し乗せした金額でオファー(都心部は流行り廃れが早くオファーをかけても購入する小売店がないのに対し、地方のディスカウントストア等はファッション誌に2万円や3万円の価格表記がされているスニーカーが安く仕入れられるのならと、ふたつ返事で全て買取りしてくれたそうです)して在庫処分を実行。ホームセンター等で1万円を下回る金額で売られていたAIR MAX 96 II(97SS)は過剰に輸入された並行品の末路だったのです。
この様に…ネットが普及し、個人輸入が容易に出来る現代では考えられないことが当たり前の様に横行していた時代だったので、同じ商品でありながらちょっとした時間差や地域差によって価格も販売状況もユーザーからは見え方が大きく違っていた。そしてそれらをユーザー同士がリアルタイムに共有する機会も術も極めて少なかったというのがAIR MAX 96 II(97SS) が登場した時代なのです。

AIR MAX 96 II(97SS)はそれなりのヒット作であるにも関わらず、人気がなかったと認識されてしまう側面があるのはこういう裏事情の存在によるものだったと少しでもお伝えできたなら幸いです。
私がAIR MAX 96(97SS)を不遇の存在と考える理由は、19年後に名前が変わったことと…誕生した時代の周辺事情が災いし人によってはエアマックスの黒歴史的な存在と認識されてしまっている(本当の意味での黒歴史はファーストカラーでさえ全く売れなかったAIR MAX 98なのです)からで、決してセールスが振るわなかったからではありません。だって、正規ルート品はそれなりにしっかり売れたモデルなのですから。
故にAIR MAX 96 II(97SS)は決して不人気モデルなどではありませんでした!

因みに私個人が90年代のスニーカーブーム終焉を強烈に感じざるを得なかったのは、箱から出されワゴンに山積みされても売れ残っていたAIR JORDAN 12 BRED(黒赤/ブルズカラー)をあちこちの並行店で見かける様になった時でした。
