
キョーレツ オゲレツ レッツゲットイル!!
TEXT by 今井タカシ(初代atmos店長)
前回までは、GAS BOYS結成までの話。
そして今回は、レコードデビューまでの話を書こうと思う。

1988年に小学校の同級生の上杉くんとノリで始まったGAS BOYSだったが、やり初めの当初は、ラップなんてそれまでやった事もなかったから、まずは練習をひたすらやっていた。夜な夜な集まっては、地元柏の長崎屋の非常階段で、ラジカセを大音量で流しては、声を張り上げてラップの練習。ラップの練習に飽きたらスケート持って、商店街に繰り出して、スケボーやって、そしたら今度はヤンキーに追いかけられて、逃げて、また長崎屋の非常階段に戻って、ラップで憂さを晴らして、なんて日々。当時、ラップなんて地元でやってる奴なんていなかったから、ラップの練習がてらナンパして、キモ悪がられたりしてたな。今じゃ信じられないかもしれないが、その頃1988年頃は、ベースボールキャップを被ってる奴は野球部か変態児くらいしかいない時代で、まずキャップを被ってる時点でアウトだし、さらにヒップホップかぶれし出して、ゴールドチェーンなんかも付け出して、ベースボールキャップからカンゴールハットなんか被り出して、気分はモロB-BOYなんだけど、そんな格好、理解できる奴なんて、自分らの周り以外、皆無で、マジ変態だと思われていたと思う。


そんな時代背景の中、地元じゃ煙たがれてたが、前回でも触れた、チエコビューティーさんとの出会いで、無事に憧れのクラブデビューが出来、その後、クラブミュージック好きな連中と色々と出会うことになるのだが、その一番大きなきっかけとなったのが、インクスティック芝浦ファクトリーで行われたDJアンダーグラウンドNo.1コンテストに出場したことだ。1989年のこと。
地元でシコシコデモテープを作って、大会運営者に送って、無事テープ審査を通過して、晴れて出場できたのだ。


自分たちが出場したのは確か第3回目だったと記憶している。2回目にスチャダラパーが特別賞を取って、スターダムへとのし上がっていった。
当時、自分ら世代でラップやってる奴らの全国大会みたいな感じで、ラップ創世記の一番尖ったイベントだったのではないだろうか。初めての大きい舞台で、めちゃくちゃ緊張したし、めちゃくちゃに楽しかった。予選大会を通過して、翌日の決勝大会まで進めたことは、いい思い出。
そこで出会ったのは、DJクラッシュさんを筆頭に、ムロやツイギー、ハイテックグルーブ、ゴールドカット、デフビートクルー、タフナッツ、ドラゴン&ビッケ、千葉くん、ミーゴアミーゴ、などなど。この出場がきっかけで、一気にヒップホップな人脈が増えた。ここで出会えた人達とは、未だに縁があるから不思議だ。

それまで地元で、仲間内でワイワイやってた身内ノリから、そのコンテスト出場を境に、グワっ〜と世界が広がった。
そこから自分らのクラブ活動が活発になり、都内のクラブへ夜な夜な遊びに行くようになり、さらに友達も増え、面白すぎるヒップホップライフの幕が開かれたのだった。
霞町交差点(今は西麻布交差点)付近の地下にあったクラブ、トロスにも、その頃から通い出すようになった。須永辰緒さん(DJ DOC HOLIDAY)が回していて、その周りに、DJアンダーグラウンドコンテストで出会った人たちがみんないた。それはそれは、楽しい空間だった。日本のクラブ創世記でもあり、ヒップホップ創世記な時代の、地元に居場所が無かった自分らの唯一のオアシスであった。出会う奴ら、全員曲者で、ホントに濃密で最高な時間を、その空間で過ごせた。
その後、その場所はGASと名を変え、(GAS BOYSの由来が、このGASからきていると、よく間違えられたが、結成はその前で、実際はオナラBOYSで、当時オナラのことを英語でGASって言うもんだと勘違いして命名)そこでも暴れていたな。この時に辰緒さんから酒の飲み方を学んだと言うか、鍛えられた。とにかくウオッカをグラスなみなみに注がれ、それをとにかく一気に飲む。常にそんな調子だったから、常に泥酔して、暴れていたような記憶がある。
そこで、話は前後するが、木村くん(後に頭バーを共にやる事になるのだが、この時には、そんなことになるなんて夢にも思っていなかった)にデモテープを渡したことがきっかけで、辰緒さんの耳にも入るようになり、気に入ってもらい、何かと気にかけて貰えるようになった。


アメ横のスニーカー屋カネオカで働き始めたのも、ちょうどこの頃から。
ひどい店員だったと、自分でも思う。毎晩、毎晩飲み狂っていたから、毎日ひどい二日酔いで店頭に立っていた。そんな自分でも、スニーカー好きさ加減では、他の店員を圧倒していたから、店の中ではでかい顔ができていた。
当時売っていたスニーカーは、入った頃にちょうどAIR JORDAN 3が出たばかりで、なんかヤバいスニーカーが出てきたぞ、と感じた。AIR MAX 1もそのタイミングで出てきて、NIKEがにわかにクローズアップされるようになってきた。それでもセールス的には、まだまだで、なんと言っても当時のスニーカーキングはadidasだった。ちょうどフランス生産が終了し掛かっていて、カネオカでは並行輸入でフランス製のスタンスミスやらスーパースターをしこたま仕入れては、バンバン売っていた。実質3坪しかないお店で、毎日100万円の売り上げを立てていた、バブルの残り香が残っていた香ばしい時代。



クラブの話に戻って、それから舞台は新宿花園神社地下のミロスガレージへと移っていった。
毎週火曜日CLUB OF STEEL
辰緒さん(DJ DOC HOLIDAY)と今は亡きECDがホストのレギュラーパーティー。
ここに移ってから、毎週毎週通ったし、なんだったらミロスにほぼ毎日顔出していた時もあった。
ミロスの話は、また長くなりそうなので、今回はやめときます。








で、そのミロスに移ったタイミングくらいに辰緒さんが、レコードレーベルを始める。
RHYTHMである。
そこで、なんと自分たちに声が掛かった。
デモテープを1本だけ作った、素人丸出しな自分らが、なぜ抜擢されたのか、ことの経緯は分からなかったが、馬鹿で素人な自分たちは、舞い上がってしまい、二つ返事で「やります!」と答えていた。
若気の至りで、怖いもの知らずな自分らは音楽業界へと漕ぎ出してしまったのであった。
RHYTHMのレーベルメイトはMAZZ + PMX , BOY KEN , YOU THE ROCKら。
ここからさらに大海原へと向かうのであるが、この先は次回へと続く。





